パヴァン神父のお話

~カトリック米子教会ニュースレターより~

カトリック米子教会からニュースレターが届きました。

この4月から赴任されたミラノ宣教会パヴァン神父のお話をご紹介します。

 

みなさん、主のご復活おめでとうございます。

 

 復活したイエスの最初の宣教師となったのは、マグダラのマリアでした。

週の初めの日、マリアがイエスのお墓に行くと、墓は開いており、

イエスの遺体もありませんでした。それを見たマリアは泣き出しました。

イエスが取り去られたのだと思ったのです。イエスに話しかけられても

幻聴だと思い込んでいました。復活の話を聞いていたのに、マリアには、

かわかっていなかったのです。いえ、マリアだけではありません。弟子も

イエスの復活がわかりませんでした。イエスの復活の報せを聞いても

信じませんでした。私たちにとっても、十字架や受難の意味を理解するのは

そう難しくなくても、体の復活は難しいでしょう。理性で復活のできごとは

わかりません。福音を見ても、奇跡とか苦しみについては数多く語られて

いますが、復活や復活の証拠についてはっきりとは書かれていません。

 

 なぜでしょうか。どうして復活について説明しないのでしょうか。それは、復活は

説明するものではなく、体験する出来事だからです。これは生きることです。復活とは、

笑顔を見せる、人を喜ばせる、人を助ける、人に命を与える、慰めるなどのことがらから

できています。復活したイエスとの出会いは私たちの人生を変えます。

 

 私たちは悲しみや苦しみの中にある時、なにも見えなくなります。隣の人の中にある

神の存在にも気づきません。マリアもそうでした。となりでイエスが話しているのに

わからなかった。彼女の悲しみはそれほど深かったのです。けれど、いえすに名前で

呼ばれるとすぐにわかりました。そして、イエスにしがみつこうとしました。この幸せを

独り占めしたい!と思ったのかもしれません。イエスはマリアに言いました。

「わたしにすがりつくのはよしなさい」この復活の喜びは、あなただけのものではない。

みんなに知らせなければいけないと言ったのです。

 

 イエスの命令を受けてマリアはすぐに走って知らせにいきました。私たちもイエスに

出会ったら、自分は特別だからとか、この恵みは自分だけのもの、などと感じるかも

しれません。でも、自分のためだけのものではありません。出会いの幸せは、みんなに

知らせる義務があります。

 

 イエスに出会った喜びをみんなに知らせに走った女性がもうひとりいます。サマリアの

女です。自分が出会った人はメシアかもしれない!と彼女は水瓶を置いたまま喜びいさんで

人々に知らせにいきました。私たちも知らせにいきましょう。いい映画を見たとき、珍しい

ものを見たとき、どうしてもだれかに話したくなるものです。みんなもぜひ見てください。

体験してくださいという気持ちです。真の喜びは自分のなかにおさまりきらずにあふれ出す

ものです。けれど、復活はことばで説明するものではありません。これは、日々の生活のなかで

生きることです。復活祭は、他人に命を与えて愛するようにと私たちを招いています。愛と

いのちは死よりも強いです。

 

 復活祭を春に祝うのは、決して偶然ではありません。春といえば、桜、花々、新緑、始まり、

出会い、期待、希望、新しいのちです。春は復活したイエスのようにあなたたちも生きなさいと

招いています。もし私たちが幸せに満ちた日々を生きるなら私たちの人生はいつも春になります。

日々の生活のなかで笑顔や愛に満ちた心で人々に出会ったら、復活祭の香りは私たちの側に

あります。ことばを使わなくても生き方で、イエスが復活したことの宣教師になると思います。